八幡造り御本殿

国家鎮護の社として都の裏鬼門に位置する男山山上に御鎮座されてより1150年以上の間、時の為政者を始め、幾多の人々の祈りが捧げられ、篤い崇敬を受けてきた当宮の根本である本殿は貞観元(859)年、木工寮権允・橘良基は清和天皇の勅命により六宇の宝殿を建立し、順次「八幡造り(はちまんづくり)」の社殿を完成させるに至りました。
以来、造営14度・修理17度におよび、現在の社殿は寛永11(1634)年、徳川三代将軍家光公の修造によるものです。
前後二棟(内殿・外殿)からなる八幡造りの社殿建築様式は稀少であり、桧皮葺屋根の軒が接するところに織田信長公寄進の「黄金の樋」が架けられています。

御本殿から幣殿・舞殿・楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊が囲む社殿の建造物全てが丹漆塗で、御本殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻をはじめ随所に当時の名工の極彩色彫刻が施された極めて壮麗な社殿であり、平成28年2月9日に本社10棟と附(つけたり)棟札3枚が国宝に指定されました。

《楼門》

社殿の顔である楼門の正面には、蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具(かざりかなぐ)があり、よく見ると向かって右側の鳩は少し口を開けています。神使である鳩が社殿の正面にて狛犬と同様に阿吽の呼吸で御神前をお守りしています。 また、その双鳩の少し上を見上げると、極彩色の壮麗な龍虎の欄間彫刻が施されています。南に朱雀、東に青龍、西に白虎、北に玄武という四方を守護する四神(神獣)の関係から考えると、当宮の龍虎の彫刻は東に虎、西に龍の彫刻が配置されており、これは、御祭神を祀る位置と順番に合わせて逆に配置されているとも、現在の社殿の修造した徳川家光公の生まれ年が辰年であり、家光公が尊崇した徳川家康公は虎年生まれであるため、自分の干支が尊敬する家康公の干支よりも上位(=東、下位=西)の位置に配することのないよう家光公が配慮したともいわれています。

《瑞籬欄間彫刻》

御本殿を囲む瑞籬には、壮麗な当宮の社殿を象徴する極彩色の欄間彫刻が150点以上も施されており、一説には江戸期の名工・左 甚五郎一派の作と伝えられています。  なかでも「かまきり」や「りすとぶどう」「天人(てんじん)」など珍しい彫刻もあり、荘厳にして堅牢な廻廊の内側では壮麗な瑞籬の動植物たちが見るものを圧倒し、楽しませます。

《織田信長公寄進の金銅製雨樋》

八幡造りである御本殿の内殿と外殿の「相の間」に架かる織田信長公寄進の通称「黄金の雨樋」。  天正7(1579)年12月、信長公が雨に遭って山崎寶積寺に逗留の際、木製の雨樋が朽ち雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じ、翌、天正8年8月には木製から唐金の雨樋に造り替えられました。これには、もし再び当宮に天災などの有事が起こった際には、この「黄金の雨樋」を換金し、その対処にあたるようにとの信長公の信仰心の深さがあったという伝承があります。
長さ21.7m、幅54cm、深さ21cm。

《目貫きの猿》

西門の蟇股部分に、琵琶の木にぶらさがり木の実をくわえる一匹の猿の彫刻があります。実はこの猿、一説には伝説の名工・左甚五郎の作といわれ、数ある当宮の彫刻のなかでもとりわけ秀逸な作品のため、ある日、猿に魂が宿り、夜になると蟇股から抜け出して山麓の畑を荒らすので、困ったお百姓さんたちが八幡宮に相談した結果、かわいそうであるが抜け出せないようにと猿の右目に釘が打ちつけられ、それ以降猿の悪さがなくなった、という逸話が残っており、通称「目貫きの猿」と呼ばれています。

《流れ左三つ巴紋》

巴は橘とともに当宮の御神紋であり、御本殿の彫刻を始め軒瓦など各所に見られます。当宮の巴は「流れ左三つ巴」であり、いつの時代に何故御神紋になったのか定かではありませんが、尾が長い文様ほど古いとされています。  幣殿の蟇股には4つの巴紋の彫刻が施されていますが、実は1つだけ右巴があります。これは、社殿を完成させてしまうと、あとは朽ちるのを待つことになり、あえて未完成の箇所、間違いの箇所を造ることにより、まだその社殿が未完成であり、益々の発展を遂げるという願いと縁起が込められているとされています。

《橘の木》

京都御所紫宸殿前には「左近の桜、右近の橘」が配されていますが、当宮舞殿の東西両側には橘の木が植えられおり、秋から冬にかけて黄金色の実をつけます。  これは当宮を宇佐宮から勧請した行教律師の御紋が橘であり、また創建時の六宇の宝殿を建立したのが木工寮権允・橘 良基であったことに由来し、当宮の御神紋である「流れ左三つ巴」とともに御社紋として使われていることに起源があるのではないかとされています。

《徳川家の「隠し葵」》

男山四十八坊のひとつ、豊蔵坊は徳川家康公が三河の大名にすぎなかったころからの祈願所で、将軍家祈願所として幕府および徳川家から受けた待遇は格別のものがあり、家康公自身、42歳の本厄にあたり、自分の姿を写した等身大の御像を豊蔵坊本堂の神殿に祀っています。(現在は京都・等持院に安置されています) また、家康公の側室となり、尾張藩祖・徳川義直公の生母であった於亀の方は、石清水八幡宮累代祠官家である田中家の親族であり、当宮と徳川家は強い繋がりをもっていたことがうかがえます。 そして、現在の御社殿は寛永8(1631)~寛永11(1634)年にかけて徳川家光公の修造によるもので、そのことから考えると、徳川家の御紋である「葵の御紋」がいたるところに施されていてもよいものですが、見当たりません。 実は、楼門蟇股部分、正面の双鳩(錺金具)の裏側、すなわち参詣者からは見えない位置に、当宮の神紋とともに「葵の御紋」が、錺金具に彫られています。 「さすが徳川将軍家、なんと控えめなことか」と捉えられますが、実は、八幡大神様からは一番良く見える真正面に「葵の御紋」が施されている位置関係になっています。