石清水八幡宮

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八幡宮の文化財

八幡宮の文化財

石清水八幡宮の第一の「たからもの」は、この男山とその頂に御鎮座する当宮そのものであり、千年以上ものあいだ、先人から絶えることなく大切に護り伝えられてきた信仰を次の世代へと伝えることが私たちの使命です。

稽古照今(けいこしょうこん) -古を稽(かんが)え、今に照らす-

当宮は明治初年のいわゆる「神仏分離」によって多くの貴重な文化財が失われましたが、現在も多数の文化財を所有しています。 その歴史を紐解くことで、先人の思いと知恵を受け継いで今に活かし、そして次の世代に繋げるため、研究所を設置し、文化財の研究や修復作業などに取り組んでいます。
何卒、文化財保護への趣旨ご賢察いただき、文化財保護基金としてのご奉賛を賜りますようお願いいたします。

当宮の指定文化財

国宝

建造物

石清水八幡宮本社(10棟)

 ○本殿(内殿及び外殿)(H28.2.9)
 ○摂社武内社本殿(H28.2.9)

 ○瑞籬(H28.2.9)

 ○幣殿及び舞殿(H28.2.9)
 ○楼門(H28.2.9)
 ○東門(H28.2.9)
 ○西門(H28.2.9)
 ○廻廊3棟(H28.2.9)

その他

附(つけたり)棟札3枚(H28.2.9)

国指定重要文化財 古文書

巻 物 796巻(S35.11・H11.4・H26.8)
冊子本 368冊(S35.11・H11.4・H26.8)
書 状 1025通(S35.11・H11.4・H26.8)
地図等 10鋪(S35.11・H11.4・H26.8)
折 本  21帖(H11.4・H26.8)
掛 軸 5幅(H11.4・H26.8)
落款等 11顆(H11.4・H26.8)

『類聚国史』(巻第一、巻第五)※嘉禄三年五月十九日書冩奥書(S38.7)
建造物

若宮社(H20.12)
若宮殿社(H20.12)
水若宮社(H20.12)
住吉社(H20.12)
狩尾社(H20.12)
東総門(H20.12)
西総門(H20.12)
北総門(H20.12)
石造り五輪塔(S32.2)
鎌倉期石灯籠(S37.2) ※永仁三年乙未三月日刻銘

国指定史跡

松花堂及びその跡(S32.7)

石清水八幡宮境内(H24.1)

神像

木造童形神坐像(4躯)(H18.6)

京都府指定文化財 建造物

石清水社(本殿・神水舎・鳥居)(H21.3)

校倉(H21.3)

神像

木像神像(4躯)(H10.3)

京都府指定天然記念物 神苑南側の楠および神楽殿北側の楠(S61.4)
八幡市指定美術工芸品 松鳩図絵馬(S61.5)

文化財のご紹介

藤原宣孝「大宰府符」

重要文化財「石清水八幡宮文書」として一括される文書群は、平安時代中期から明治の初頭まで、およそ千年間にわたり作成され伝えられてきた文書で、より詳しくみれば、その文書がどの家に伝来したかによって、田中家文書、菊大路家文書、東竹家文書、その他の文書に大別されます。 「石清水八幡宮文書」のなかで、最も古い時代に記された原本史料とされるのが、田中家文書・正暦3年(992)の「大宰府符」。この文書は、当時大宰府の役人であった藤原宣孝(奉行 少貮兼大介藤原朝臣)、すなわち後に紫式部の夫となる人物の自筆署名が遺された唯一の史料としても知られています。 藤原宣孝は長保3(1000)年4月に急死し、紫式部との結婚生活は2年足らずとなってしまいましたが、二人には、魚の「イワシ」と「イワシ水八幡宮」にまつわる夫婦間のやりとりの逸話が残っています。

木造童形神坐像

平成3年3月、境内築地内の校倉の中から、古神像8躯が発見されました。  この倉の奥には、もともと古い釣灯篭の残骸などが積み上げられていましたが、この下から大小20数個の木片がバラバラの状態で見つかり、この木片を組み合わせたところ、いずれも桧材・彩色仕上げで、高さは大きいもので47.5cm、小さいものは約17cm、髪をミズラ(左右に分けた髪を両耳上で束ね垂れ下げた形)に結い、袍(上着)を着て帯を締めた童形の男神像が5躯、唐服をまとった美しいお顔立ちの女神像が2躯、僧侶のお姿のものが1躯、合わせて8躯の神像が現れました。  どの像にも、手足の一部に、かなり早い段階に生じたと見られる欠失が認められましたが、これは神像としての役目を終え、すでに魂を抜かれた状態であることを示すため、人為的に施されたものと推測されています。  発見された古神像8躯のうち、平安時代末から鎌倉中期にかけて製作されたと見られる男神像4躯が、「木造童形神坐像」として平成18年6月に国の重要文化財に指定されました。(他の4躯は京都府指定文化財)

足利尊氏「元結の御教書」

数ある中世文書(鎌倉時代~戦国時代)のなかでも、やはり圧巻といえるのは、足利尊氏を初代とする室町幕府歴代将軍の自筆願文や寄進状などであるといえます。これら室町将軍家に関わる文書の大半は、善法寺家(維新後は還俗し家名を菊大路と改む)に伝えられました。  善法寺家は、石清水祠官家嫡流である田中家の支流ですが、南北朝時代、朝廷(南朝)寄りの田中家に対し、善法寺通清(1296~1341)が足利(北朝)支持にまわり、後には娘の良子が3代将軍・義満の生母となったことで、同家と将軍家はいよいよ親密の度を加えていきました。  後醍醐天皇に叛旗を翻し、一旦は官軍の猛攻を受け九州に落ちのびた足利尊氏が、再び軍勢を率い上洛せんと密かに使者を男山に送り、戦勝祈願を善法寺通清に依頼したと伝わる当宮文書は、一説には使者が髪を束ねる紙縒(こより)[元結(もとゆい)]に隠して持ち込んだとされることから、「元結の御教書」なる異名も伝わっています。

豊臣秀吉奉納釣灯籠

石清水八幡宮には、武田信玄や明智光秀など、著名な戦国武将からの書状が多数伝わっており、なかでも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とつづく「天下人」の文書には、彼らの天下万民へ向けた言外のメッセージが込められているように見受けられます。  織田信長の朱印状を見ると、馬蹄形の枠に有名な「天下布武」の印文が鮮やかに浮き上がって見え、いかにも威風堂々、圧倒的な印象を与えます。  また、豊臣秀吉が石清水八幡宮祠官家の田中門跡(田中秀清)に宛てた天正17年(1589)11月20日付の領地朱印状の秀吉の朱印は、印文が不明で、ミミズが這ったようにも見えることから、通称「蚯蚓(みみず)の糸印(いといん)」と呼ばれています。  当時の田中家は、豊臣氏と非常に親密な関係を築いており、天正15年(1587)に豊臣秀吉から奉納された釣灯籠の火袋柱には「豊臣太政大臣、天正十五年五丁亥年、八月良辰、宿坊、瀧本坊」の文字が彫られています。  その後、豊臣氏が没落すると、田中家にとって最重要の課題となったのが、徳川家との良好な関係を保つことでした。そのために最も大きな力となったのが、田中家の親族で、すでに家康の側室となっていた於亀の方(尾張藩祖・徳川義直生母)の存在であったということができます。

石清水八幡宮御縁起

上巻・下巻の2巻からなり、下巻奥書に室町幕府第6代将軍足利義教公奉納の絵巻を橘継雄という人物が享保13(1728)年に謹写したもの、とあります。義教公が永享5(1433)年に奉納した旧国宝の原本絵巻は、昭和22年2月、社務所の火災により惜しくも焼失してしまいましたが、その写本とされる本絵巻は、焼失前に撮影された原本写真と比較すると、少なくとも絵画部分については正確に模写されたものではなかったように見受けられます。  詞書のあいだに挿入された絵は、各巻7景ずつ計14景描かれており、上巻には、仲哀天皇の「塵輪」退治、神功皇后の御出陣、老翁(住吉大神)の活躍二計、安曇磯良出現、豊姫の竜宮訪問、新羅軍の来襲と干珠・満珠の威力などを描いています。下巻では、新羅王の降服、応神天皇の誕生、応神天皇の御代の隆盛、八幡大神御示現に関わる場面2景、宇佐宮宝前に額ずく和気清麻呂と続き、行教による石清水遷座の場面で終わります。  全国の八幡宮には類似の縁起絵巻が多数伝えられており、当宮にも正応2(1289)年作との奥書を有する八幡宮縁起絵巻1巻が別に伝わっています。


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